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【World's End Club/ワールズエンドクラブ】俺はデスゲームを遊んでいたと思ったら いつのまにか鏡を覗き込んでいた 何を言っているのかわからねーと思うが…【レビュー/ネタバレ注意】

はい、鉄を熱いうちに打ちましょう。

すなわち、つい先ほど「ワールズエンドクラブ」をプレイし終えました。

ネタバレをいたします。今遊んでいる人は、終わってから見に来てね。

レッツゴー。

 

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【ヤバすぎ! 先入観と邪推の全てを嘲笑う、究極の裏の裏、つまり表!】

僕は基本的にゲームを遊ぶ時、努めて事前に情報を入れません。特にアドベンチャーなんかは、あらすじ見ただけで何となくオチまで読めてしまうこともあるし、誰が作った、何処が作った、というような話も、あんまり意識せずにタイトルに触ります。

 

しかしこの「ワールズエンドクラブ」に関しては、まずそういった「誰」「何処」という情報から先に耳に入ってくる作品でした。つまり「あのダンガンロンパの!」という話ですね。

 

そして「少年少女」「デスゲーム」といったキーワードを散りばめてきますから、いよいよその先入観は無視できないものになってきます。この時点で僕はかなり「ワールズエンドクラブ」の術中で「どんな残酷劇が見れるんだろうワクワク」「僕の中の悲劇ランキングは更新されるだろうかドキドキ」といった気持ちでプレイを始めています。

 

ところがどっこい「ワールズエンドクラブ」は悲劇のゲームではありません。まあ、序盤でピエロピが「人類史上最大最悪の絶望的デスゲーム」なんて単語を出しますから「おお!?」とはなるんですが、結局はセルフオマージュの域を超えないワケですね。みなさんもご存知の通り、デスゲームは中止され、世界の謎を解き明かすための冒険が始まります。

 

そこからのストーリーは、とても「不穏」でありながら、不自然な「ポジティブさ」に満ちていて、しかし「恐るべきもの」は出現します。それは怪物であったり、人間であったり、機械であったりします。加えて、作中では「人の死」についてしっかりと語られますし、キャラクターたちは様々な葛藤を有しています。つまり「決してヤワな世界観ではない」ことを描いています。ですからプレイヤーは、いつ、だれが、どこで脱落するのかについて邪推しながら進みますが、しかしその時は決して訪れません。

エンディングを見たプレイヤーならお分かりでしょうが、この「ワールズエンドクラブ」のストーリーは、なんとも圧倒的に王道なジュヴナイルで、ほとんど憂いを残さない、完全なハッピーエンドを迎える作品です。

ストーリーの面白さ、その本質について僕は「驚きを与えること」だと考えています。そういう意味で言うならば「ワールズエンドクラブ」のストーリーは、面白いと感じました。だって、ずっと予想を裏切られっぱなしになるワケですから。

「あ、それ無事なんだ」「あ、すぐ仲直りするんだ」「あ、どうにかなっちゃうんだ」「あ、再登場するんだ」「あ、死んでないんだ」「あ、救われちゃうんだ」

驚きっぱなしです。僕が抱いていた邪推は全てハズれ、作中では「善きこと」ばかりが起き、そして魔法のような論法と手段によって、物語のような結末が手に入ります。

僕が「ストーリーに求めていたもの」が徹底的に嘲笑われているように感じました。

「リアリティなんぞクソ食らえ、ご都合主義で何が悪い、全てはお前の邪悪な想像だろうが。これは鏡だ、中に悲劇を予想したなら、それを求めるお前をこそ驚かせる物語なのだ。」と。

正直、シビれました。

確かに確かに、作品の中で行われていることは、それこそ少年少女向けのもの。友情や努力といった数値化の難しいステータスを参照して成否を判断し、結果として必ず勝利が与えられていく。困難はあれど、基本的に無敵のストーリーです。

例えば、このゲームを作ったのが「イナイレ」や「妖怪ウォッチ」の「レベルファイブ」だったとしたら、ここまでの驚きは無いし、喜びも、落胆も、そもそも期待も無かったかも知れません。触ることさえ無かったかも。

それを「あのダンガンロンパの!」という情報が上書きした結果、生まれた邪推を裏切っていくストーリーに、どうしようもなく驚いてしまったワケですから。それに「物語の中盤から、主人公がCV:緒方恵美さんのキャラクターになる」なんて、セルフオマージュと呼ぶには楔が大きすぎます。

生モノだなぁ~~~~と思いました。今しか「この愉しみ方」をできないゲーム。「ワールズエンドクラブって、予想に反してこうだったよね」という情報が浸透してからでは、一切楽しめないゲーム。一言で言うなら「とってもメタい」。

ともかく、貴重で奇妙な体験ではありました。

 

【それはそうとしてアクションゲームとしては本当に凡作】

これは語るに欠かせない部分です。一応、本作のジャンルにはアクションが含まれています。

ですが、この部分が本当に凡中の凡。操作性は悪く、ステージギミックも単純なものばかりで、とはいえ適度にゲームオーバーさせるために初見殺しのようなものは多く、リトライのテンポも昨今のアクションゲームに比べればやや悪め。

つまり、やられる時は「初見殺しに引っかかる」か「操作性の悪さや視認性の悪さに足を引っ張られる」ということが大半で、それを回避すれば、後はテクニックも知識も必要なく、押せるボタンを押すだけでステージは進みます。これは「難しい」とも「簡単」とも違います。ただ「やり甲斐が無い」というだけです。こういった感覚が手に残るアクションは、もちろん面白くありません。「上達」がありませんから。

となると、アクションパート全体が「ストーリーの続きが早く読みたい!」というモチベーション、そしてゲーム全体のテンポを阻害するものでしかなくなってしまいます。

もちろん、12人の少年少女たちが、12の特殊能力に目覚めていく過程は、カットシーンではなくアクションシーンでこそ映える要素です。このストーリーなら、アクションパートは必要でしょう。ですが、だからこそ、このアクションパートに関しては、より研鑽やフィーリングテストが必要だったのではないかと思いました。

これって、アクションゲームが得意な人(自分のテクニックや経験を活かしたい人)にとっては当然つまらないし、アクションゲームが苦手な人(素早い操作や反射的な対応が苦手な人)にとっても、別に面白くないものだと思うんですよね。「カジュアルだ」なんて好意的に言うこともできません。約12の特殊能力があるのに、そのほとんどが「相手の目の前まで行ってボタンを押す」ことを解法にしているのは、あまりにも勿体ないと感じました。

 

【でも結局…?】

記憶に残っちゃうゲームですねぇ~~~。

他にないですもん、こんな歪曲した楽しみ方ができたゲーム。「来るのか…!?」が一生来ないことに対して、変な意味でドキマギしながら、それでも作中では途方もなく王道のストーリーが紡がれていく。

でもやっぱり「妙な下ネタ」だったり「変な性癖」だったりはネタとしてねじ込んでくるんです。ダンロン的な邪知の息遣いは聞こえるワケですよ。

だからこそ、スタッフロール後の最後のシーン、あまりにも純真無垢な瞳で―――、

「ありがとう! 君のお陰だ!」

と言うポチに対して、僕は思っていました。

「いいや、礼には及ばないし、僕と君とは友達にはなれない。むしろ憎んでもらった方がいい。だって僕は、お前たちが死ぬより酷い目に遭うことを期待してコントローラーを握り続けていたんだからね…。」

と。

ああ、このゲームは「鏡」だな、と思いました。

 

【じゃあ、ストーリーは良かったってこと?】

それがどっこいそうでもないのが、この「ワールズエンドクラブ」が"奇"なる部分です。まぁ、僕はこういう奇妙さが大好きですけれど。

「ポップでキュートな王道ジュヴナイル!」

と言えば聞こえはいいんですけど、ストーリー自体は超メチャクチャです。いきなり重度のメタ構造を展開して、プレイヤーをストーリーの中に動員してくるし、全国を巡礼するというガイドラインも、各地の観光名所を触りだけ紹介するくらいの役割しか果たしていないし(なぜ大阪に行ったのか? それは道頓堀でカニ型のボスと戦うためです。くらいの必要性)、12人の少年少女が干支をモチーフにしていることにも意味がない(本当に意味がない。覚醒する能力とも全く関係ない)し、れいちょに心が芽生えた理由も、最たる伏線や根拠、説明なく「奇跡」の一言で済みますし。雪やピエロピの存在意義に関しても同じです。とにかく、プレイしていて「理由」が見えてこない…というより、その「理由を探す遊び」をさせてくれない。これはアドベンチャーとして上等なものではない、と思いました。

 

ただ1点、物語の区切りごとに衝撃的な事実を発表して、新鮮な驚きを提供し続ける、という魂胆については、好ましい部分です。やっぱりアドベンチャーというジャンルへのモチベは、知的好奇心が原動力ですからね。驚けば驚くほどに手が進みます。

「デスゲームなんてなかった!」「バニラ、実は…」「人類の生き残りは普通にいた!」「れいちょの正体は…」

このあたりは、明かされる度に「おお、そうか。」と驚けましたし、何ならそれが明かされるちょっと前くらいに「何となくそんな気がしてくる」というのが上手だな、と思いました。さすがに終盤にもなって「ポチが!」「雪が!」のくだりになってくると、予想の範疇を超えることはありませんでしたけども。

それから「ただとにかく徹底的に"邪推"を裏切る」という信念の下に、魔法もメタも総動員して、面舵一杯ハッピーエンドへ向けて進んでいく、という設計は面白かったです。この作品は、最初から王道の「表」を目指したストーリーではなく、「裏の裏」を目指した結果、王道に帰結したストーリーであることは間違いないでしょう。

【まとめると】

奇ゲーでした。めっちゃリッチなデザインの奇妙なアドベンチャー

12人の、12歳の少年少女。世界の終わり。デスゲーム。

そういったキーワードに喰いついた"奇"を求めるプレイヤーを、それ以上の変化球で差し切ることを目的にした、凄まじい発想によるゲームです。

ただし、これを全編通して「ずっと楽しく」プレイすることはきっと難しいでしょうから、完成度で言えば、きっと高くはありません。

好きな人は好きでしょうし、嫌いな人は、きっと許せんくらいに嫌いでしょう。

僕は好きです。

竹さんのキャラクターデザインや、声優さんのお芝居は最高でしたからね。

 

おわり

 

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【蛇足】

これだけのハッピーエンドを迎えても、やっぱり彼らは12歳の子供たちです。

軍拡競争によって自滅しかけているような世界で、兵器に匹敵するような超能力に目覚めた子供たちです。取り戻した未来が、明るいものになる可能性は、果たしてあるのか。

次の敵は"無数の大人"ですし、それは感情と責任感、そして慈悲を持った"ひとりのAI"よりも、遥かに残酷で手ごわい相手でしょう。友情がそれに敵うかどうか。犠牲を出さずに乗り切れるのかどうか。

そういった影がしっかり落とされているのですから、残酷な未来を想像するのも、このストーリーの楽しみ方のひとつですね。

ちなみに、この後しばらくして「この12人が大人になって登場する本当のデスゲーム作品」が続編として出てきたら、僕はブッたまげてこの記事を消し、Izanagi Gamesの信者になります。