マプハウス

マプが色々書きます

【ポケモンユナイト】かんたんなセオリーを守って、マスターへ行こう!

 

やあ!

ぼくは エオスとうの ポケモントレーナー

 

マプ だ

 

きみが マスターへ とうたつ し

いっしょ に あそべる ように

 

ちょっとした セオリー を

おしえよう!

 

===

 

※この記事はスーパー~エキスパートあたりを対象にした「大局的に意識すべきこと」にフォーカスしたざっくり攻略です

 

===

 

【下ルートへは行くな】

 

あんたがもし下ルートへ行って負ける(倒されて、野生ポケモンも奪われる)と、試合は終わりだ。
何故かって? 誰も、あんたが負けたことを知らないからだ。

だからあんたと、あんたが対面している相手との間にレベル差が生まれていることには気づかない。だから、みんなが集まりさえすればカジリガメの争奪戦にも勝てると信じて、何も考えずに突撃する。

そして倒れる。だれも残らない。相手のポケモンは莫大な経験値とガチガチのシールドを得て下ゴールへと押し寄せる。あんたのチームメイトはせめてゴールを守ろうとするが、もう叶わない。

この後の流れは、ロトムを取られ、カジリガメを取られ、ロトムを取られ、カジリガメを取られ、サンダーを取られ、負ける、だ。

最悪の6分間が始まる。

 

だから下ルートへは行くな。

そんな困難と責任を自分から背負えるのはヘラクレスくらいだ。
逆にあんたが下ルートに行きさえしなければ、その代わりに行くワタシラガとルカリオが、必ず対面をボコボコにしているハズなんだ。


まあ、もし、仮にそうでないとしても。
そうでないとしたら。
下ルートが負けていることを、せめてあんただけは見逃すな。

 

もちろん、あんたの体に半分だけ神の血が流れているというのなら、このセオリーは無視していい。

 

【出し惜しむな】

 

ユナイトわざは使う「べき」タイミングは、試合を通してたった1回だけ。

それはサンダー戦の最中だ。

 

だから逆に、それ以外のタイミングでは気軽に使っていい。

シンプルなキルのために使っていい。

ゴールの上から相手を退けるためだけに使っていい。

スピードアップを目的に使っていい。

調子に乗って前に出過ぎた味方を助けるために使って、逆転できればあんたはヒーローだが、しかしそのタイミングを待つ必要はない。

手癖で押すんだ!

今はユナイトわざがどんな時に撃てて、どんな時に撃てないのか、その仕様を把握するためにどんどん使うべきだ。どれぐらいのレベルの時、どれぐらいのダメージが出るのか、それを体感するために撃つべきだ。

 

残り3分30秒を切った時、はじめて封をすればいい。

そして、だっしゅつボタンに関してはもっと気軽に押していい。

 

さあ、誰かがサンダーに触ったぞ。

あんたがやるべきことは何だ?

そう、だっしゅつボタンで飛び込んでユナイトわざを撃つことだ。

誰でもいい。何でもいい。どこでもいい。

腐らせるな。狂ったように履行しろ。

「おれは精一杯にやった! 手を尽くしたぞ!」

そう叫ぶんだ。

そう叫ぶ前にサンダー戦から退場した、一試合前のあんたの代わりに。

 

ローマ地方の偉大なリーグチャンピオンであるホラティウス博士もこう言っている。

「Misce stultitiam consiliis brevem, dulce est desipere in loco.」

(僅かな愚かさを思慮に混ぜよ、時に理性を失うこともまた好ましい。)

 

【上ルートへ行き そしてカメに寄れ】

 

ミニマップの下の方に30という数字が表示されたらとにかく向かえ。
それはカジリガメが出現するまでのカウントダウンだ
そしてカジリガメを取れれば、試合に勝ったも同然だ。

 

圧倒的な経験値差とHP差によって、これまでの全ての不利は帳消しになり、チーム全体が"King of the Kill"モードに突入する。タワーに押し寄せてリードを広げてもいいし、相手の中央ルートに乗り込んで野生ポケモンをゲットし尽くしてしまってもいい。
とにかく勝ちだ。勝ちっぱなしの流れだ。

 

そして、このチャンスをモノにするためにあんたができる唯一のこと。
それは、まず自分のポジションを上ルートに定めて、そして残り7分の時点で、下ルートにいることだ。
それをやることによって、カメの奪い合いに参加する味方ポケモンが、少なくとも1匹は増える。

 

そしてあんたが奮戦するほどに「勝てないカメ争奪戦に寄るやつはバカだ」と、あんたを鼻で笑っていた隣のアローラキュウコンは、アテナイ(上ルート)でレベルを上げ続けるだろう。だがあんたは決して腐らない。それが正しいことも知っているからだ。

やがて起きるサラミスロトム)の海戦で、アローラキュウコンはユナイトわざを撃って戦闘を制し、カメを取ったはずの敵は驚く。そしてそれがターニングポイントになる。逆転劇の始まりだ。

 

全ては、あんたが上ルートからカメに近寄り、戦局を難解なものにし、時間を稼いだからだ。

分かるか?

上ルートに行く。そしてカメに寄る。

あんたがそれを選ぶことによって、あんたのチームはいついかなる試合においても、味方にレオニダス王を得るんだ。

 

【カメに手を出せ】

 

味方が5人集結している! 勝っている!

そう感じたら、カメに手を出せ。あんたのチームの方が強ければ、当然カメが取れる。

味方が5人集結している! しかし、負けている!

そう感じたらカメに手を出せ。カメは一定時間置きに強力な行動妨害つきの範囲攻撃を繰り出して周囲を攻撃してくれる。
そして、それが行われるタイミングを知っているのは、手を出したあんただけだ。
あんたはそれを回避するが、カメの様子を見に来たルカリオや、勝ちっぱなしで調子に乗っているゼラオラは強烈な打ち上げを食らって、落ちてくる頃には味方の正確なスキルショットによって倒されている。素晴らしいだろ?

とにかく触れ。始めろ。そして終わるんだ。

そうしないと、寄った全員の時間が延々と無駄になり、相手チームにいるクレバーなエースバーンのレベルだけが上がっていく。

味方が5人いるなら触れ。始めろ。そして、終わるんだ。

タイム・イズ・エクスペリエンスだ。

 

【守るな】

 

サンダーを取られたな。試合は終わりか? 答えはノーだ。

この時点で相手は250×2点分…つまり500点を持っているが、それはシュートする前に1匹倒されるごとに100点だけ減る。つまり5体倒されれば0点だ。

逆に、あんたのチームメイトはどうだ?

仮に5体が健在で、仮にそれぞれが50点分の持ち玉を持っているなら、実のところ状況は五分にほど近いんじゃあないのか? つまり重要なのは、サンダー戦の後に味方が何匹立っていて、敵が何匹倒れそうか、だ。

サンダー戦の最中に敵のポケモンのHPを削ることは、それだけでシュートの機会を奪う可能性を高めることだ。

そしてだからこそ、サンダーが倒された時、誰もが溜息をつき、降参を考える中で、あんただけはこうしろ。

まず、サンダーが倒れる際にバラまく落雷を見逃すな。あんたはだっしゅつボタンを使ってそれをかわし、哀れにも雷に打たれた相手を見つけ、倒すんだ。

もしも1匹でも倒せれば、それは100点分の働きになる。

そして次に、自分の持ち点を確認するんだ。

そこに50と表示されていれば、あんたはそこから100点分の働きができる。

0対900のワンサイドゲームをひっくり返す方法はない。

しかしそんな試合よりも遥かに多く、300対700や、400対600の試合を経験してきたハズだ。

そういった試合は、あんたが相手の100点を取り上げ、自分の100点を叩き込めば勝てたかも知れない試合だ。

サンダーがもたらす恩恵は「相手の守備を禁ずる」ことであって「相手の攻撃を禁ずる」ことではない。

窮鼠に残された手は、噛みつくことだけだ。

なら行け。失敗しても、誰もあんたを責めたりしない。

サンダーを取られたチームメイトは、全員がミニマップのあんたを見ながらこう思っている。

「あの100点が入ればあるいは…」と。

 

 

【ちからのハチマキと、きあいのハチマキを、ダブルで巻け】

 

悪いもちものは弱いもちものだ。

良いもちものは強いもちものだ。

そして、もっと良いもちものは、必ず機能する強いもちものだ。

 

ちからのハチマキを複数人が巻いていた時、カジリガメやサンダーは恐ろしい速さで溶けていく。

きあいのハチマキを全員が巻いていた時、3回発生するデスのうち1回が、逆転からのキルに繋がる。

あんたは、敵がこれらのもちものを持っていることを知覚したことがあるか?

つまりはそういうことだ。

本当に強いもちものは、必ず機能する。

そして劇的な効果を持ちながら、敵にそれを悟らせない。

困ったら今はハチマキを巻いておけ。2つ一緒にな。

そしてついでに言っておくと、このゲームに「悪いもちもの」はない。

今のところはな。

 

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それじゃあ おやすみ!

【World's End Club/ワールズエンドクラブ】俺はデスゲームを遊んでいたと思ったら いつのまにか鏡を覗き込んでいた 何を言っているのかわからねーと思うが…【レビュー/ネタバレ注意】

はい、鉄を熱いうちに打ちましょう。

すなわち、つい先ほど「ワールズエンドクラブ」をプレイし終えました。

ネタバレをいたします。今遊んでいる人は、終わってから見に来てね。

レッツゴー。

 

===

 

【ヤバすぎ! 先入観と邪推の全てを嘲笑う、究極の裏の裏、つまり表!】

僕は基本的にゲームを遊ぶ時、努めて事前に情報を入れません。特にアドベンチャーなんかは、あらすじ見ただけで何となくオチまで読めてしまうこともあるし、誰が作った、何処が作った、というような話も、あんまり意識せずにタイトルに触ります。

 

しかしこの「ワールズエンドクラブ」に関しては、まずそういった「誰」「何処」という情報から先に耳に入ってくる作品でした。つまり「あのダンガンロンパの!」という話ですね。

 

そして「少年少女」「デスゲーム」といったキーワードを散りばめてきますから、いよいよその先入観は無視できないものになってきます。この時点で僕はかなり「ワールズエンドクラブ」の術中で「どんな残酷劇が見れるんだろうワクワク」「僕の中の悲劇ランキングは更新されるだろうかドキドキ」といった気持ちでプレイを始めています。

 

ところがどっこい「ワールズエンドクラブ」は悲劇のゲームではありません。まあ、序盤でピエロピが「人類史上最大最悪の絶望的デスゲーム」なんて単語を出しますから「おお!?」とはなるんですが、結局はセルフオマージュの域を超えないワケですね。みなさんもご存知の通り、デスゲームは中止され、世界の謎を解き明かすための冒険が始まります。

 

そこからのストーリーは、とても「不穏」でありながら、不自然な「ポジティブさ」に満ちていて、しかし「恐るべきもの」は出現します。それは怪物であったり、人間であったり、機械であったりします。加えて、作中では「人の死」についてしっかりと語られますし、キャラクターたちは様々な葛藤を有しています。つまり「決してヤワな世界観ではない」ことを描いています。ですからプレイヤーは、いつ、だれが、どこで脱落するのかについて邪推しながら進みますが、しかしその時は決して訪れません。

エンディングを見たプレイヤーならお分かりでしょうが、この「ワールズエンドクラブ」のストーリーは、なんとも圧倒的に王道なジュヴナイルで、ほとんど憂いを残さない、完全なハッピーエンドを迎える作品です。

ストーリーの面白さ、その本質について僕は「驚きを与えること」だと考えています。そういう意味で言うならば「ワールズエンドクラブ」のストーリーは、面白いと感じました。だって、ずっと予想を裏切られっぱなしになるワケですから。

「あ、それ無事なんだ」「あ、すぐ仲直りするんだ」「あ、どうにかなっちゃうんだ」「あ、再登場するんだ」「あ、死んでないんだ」「あ、救われちゃうんだ」

驚きっぱなしです。僕が抱いていた邪推は全てハズれ、作中では「善きこと」ばかりが起き、そして魔法のような論法と手段によって、物語のような結末が手に入ります。

僕が「ストーリーに求めていたもの」が徹底的に嘲笑われているように感じました。

「リアリティなんぞクソ食らえ、ご都合主義で何が悪い、全てはお前の邪悪な想像だろうが。これは鏡だ、中に悲劇を予想したなら、それを求めるお前をこそ驚かせる物語なのだ。」と。

正直、シビれました。

確かに確かに、作品の中で行われていることは、それこそ少年少女向けのもの。友情や努力といった数値化の難しいステータスを参照して成否を判断し、結果として必ず勝利が与えられていく。困難はあれど、基本的に無敵のストーリーです。

例えば、このゲームを作ったのが「イナイレ」や「妖怪ウォッチ」の「レベルファイブ」だったとしたら、ここまでの驚きは無いし、喜びも、落胆も、そもそも期待も無かったかも知れません。触ることさえ無かったかも。

それを「あのダンガンロンパの!」という情報が上書きした結果、生まれた邪推を裏切っていくストーリーに、どうしようもなく驚いてしまったワケですから。それに「物語の中盤から、主人公がCV:緒方恵美さんのキャラクターになる」なんて、セルフオマージュと呼ぶには楔が大きすぎます。

生モノだなぁ~~~~と思いました。今しか「この愉しみ方」をできないゲーム。「ワールズエンドクラブって、予想に反してこうだったよね」という情報が浸透してからでは、一切楽しめないゲーム。一言で言うなら「とってもメタい」。

ともかく、貴重で奇妙な体験ではありました。

 

【それはそうとしてアクションゲームとしては本当に凡作】

これは語るに欠かせない部分です。一応、本作のジャンルにはアクションが含まれています。

ですが、この部分が本当に凡中の凡。操作性は悪く、ステージギミックも単純なものばかりで、とはいえ適度にゲームオーバーさせるために初見殺しのようなものは多く、リトライのテンポも昨今のアクションゲームに比べればやや悪め。

つまり、やられる時は「初見殺しに引っかかる」か「操作性の悪さや視認性の悪さに足を引っ張られる」ということが大半で、それを回避すれば、後はテクニックも知識も必要なく、押せるボタンを押すだけでステージは進みます。これは「難しい」とも「簡単」とも違います。ただ「やり甲斐が無い」というだけです。こういった感覚が手に残るアクションは、もちろん面白くありません。「上達」がありませんから。

となると、アクションパート全体が「ストーリーの続きが早く読みたい!」というモチベーション、そしてゲーム全体のテンポを阻害するものでしかなくなってしまいます。

もちろん、12人の少年少女たちが、12の特殊能力に目覚めていく過程は、カットシーンではなくアクションシーンでこそ映える要素です。このストーリーなら、アクションパートは必要でしょう。ですが、だからこそ、このアクションパートに関しては、より研鑽やフィーリングテストが必要だったのではないかと思いました。

これって、アクションゲームが得意な人(自分のテクニックや経験を活かしたい人)にとっては当然つまらないし、アクションゲームが苦手な人(素早い操作や反射的な対応が苦手な人)にとっても、別に面白くないものだと思うんですよね。「カジュアルだ」なんて好意的に言うこともできません。約12の特殊能力があるのに、そのほとんどが「相手の目の前まで行ってボタンを押す」ことを解法にしているのは、あまりにも勿体ないと感じました。

 

【でも結局…?】

記憶に残っちゃうゲームですねぇ~~~。

他にないですもん、こんな歪曲した楽しみ方ができたゲーム。「来るのか…!?」が一生来ないことに対して、変な意味でドキマギしながら、それでも作中では途方もなく王道のストーリーが紡がれていく。

でもやっぱり「妙な下ネタ」だったり「変な性癖」だったりはネタとしてねじ込んでくるんです。ダンロン的な邪知の息遣いは聞こえるワケですよ。

だからこそ、スタッフロール後の最後のシーン、あまりにも純真無垢な瞳で―――、

「ありがとう! 君のお陰だ!」

と言うポチに対して、僕は思っていました。

「いいや、礼には及ばないし、僕と君とは友達にはなれない。むしろ憎んでもらった方がいい。だって僕は、お前たちが死ぬより酷い目に遭うことを期待してコントローラーを握り続けていたんだからね…。」

と。

ああ、このゲームは「鏡」だな、と思いました。

 

【じゃあ、ストーリーは良かったってこと?】

それがどっこいそうでもないのが、この「ワールズエンドクラブ」が"奇"なる部分です。まぁ、僕はこういう奇妙さが大好きですけれど。

「ポップでキュートな王道ジュヴナイル!」

と言えば聞こえはいいんですけど、ストーリー自体は超メチャクチャです。いきなり重度のメタ構造を展開して、プレイヤーをストーリーの中に動員してくるし、全国を巡礼するというガイドラインも、各地の観光名所を触りだけ紹介するくらいの役割しか果たしていないし(なぜ大阪に行ったのか? それは道頓堀でカニ型のボスと戦うためです。くらいの必要性)、12人の少年少女が干支をモチーフにしていることにも意味がない(本当に意味がない。覚醒する能力とも全く関係ない)し、れいちょに心が芽生えた理由も、最たる伏線や根拠、説明なく「奇跡」の一言で済みますし。雪やピエロピの存在意義に関しても同じです。とにかく、プレイしていて「理由」が見えてこない…というより、その「理由を探す遊び」をさせてくれない。これはアドベンチャーとして上等なものではない、と思いました。

 

ただ1点、物語の区切りごとに衝撃的な事実を発表して、新鮮な驚きを提供し続ける、という魂胆については、好ましい部分です。やっぱりアドベンチャーというジャンルへのモチベは、知的好奇心が原動力ですからね。驚けば驚くほどに手が進みます。

「デスゲームなんてなかった!」「バニラ、実は…」「人類の生き残りは普通にいた!」「れいちょの正体は…」

このあたりは、明かされる度に「おお、そうか。」と驚けましたし、何ならそれが明かされるちょっと前くらいに「何となくそんな気がしてくる」というのが上手だな、と思いました。さすがに終盤にもなって「ポチが!」「雪が!」のくだりになってくると、予想の範疇を超えることはありませんでしたけども。

それから「ただとにかく徹底的に"邪推"を裏切る」という信念の下に、魔法もメタも総動員して、面舵一杯ハッピーエンドへ向けて進んでいく、という設計は面白かったです。この作品は、最初から王道の「表」を目指したストーリーではなく、「裏の裏」を目指した結果、王道に帰結したストーリーであることは間違いないでしょう。

【まとめると】

奇ゲーでした。めっちゃリッチなデザインの奇妙なアドベンチャー

12人の、12歳の少年少女。世界の終わり。デスゲーム。

そういったキーワードに喰いついた"奇"を求めるプレイヤーを、それ以上の変化球で差し切ることを目的にした、凄まじい発想によるゲームです。

ただし、これを全編通して「ずっと楽しく」プレイすることはきっと難しいでしょうから、完成度で言えば、きっと高くはありません。

好きな人は好きでしょうし、嫌いな人は、きっと許せんくらいに嫌いでしょう。

僕は好きです。

竹さんのキャラクターデザインや、声優さんのお芝居は最高でしたからね。

 

おわり

 

===

【蛇足】

これだけのハッピーエンドを迎えても、やっぱり彼らは12歳の子供たちです。

軍拡競争によって自滅しかけているような世界で、兵器に匹敵するような超能力に目覚めた子供たちです。取り戻した未来が、明るいものになる可能性は、果たしてあるのか。

次の敵は"無数の大人"ですし、それは感情と責任感、そして慈悲を持った"ひとりのAI"よりも、遥かに残酷で手ごわい相手でしょう。友情がそれに敵うかどうか。犠牲を出さずに乗り切れるのかどうか。

そういった影がしっかり落とされているのですから、残酷な未来を想像するのも、このストーリーの楽しみ方のひとつですね。

ちなみに、この後しばらくして「この12人が大人になって登場する本当のデスゲーム作品」が続編として出てきたら、僕はブッたまげてこの記事を消し、Izanagi Gamesの信者になります。

「FINAL FANTASY VII REMAKE」が100点満点中9999点だった話【後編/ネタバレあり】

 

おはようございます。

こちら「FINAL FANTASY VII REMAKE」のレビュー後編になります。

ネタバレなしで良いところを語る、前編はこちらからどうぞ。

 

この記事は頭のてっぺんから爪先までネタバレまみれです。

以下のチェックリスト全てにペケを入れられる人のみお通りください。

 

□原作FF7をクリア済み(またはプレイ動画等を見た)

□FF7Rをクリア済み(全章をクリアしてスタッフロールを見た)

 

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では語ります。

まず、誰もが震撼したであろう、爆破ミッション後のあのシーンから、今作を評価するために回避できない、ある「仕掛け」についておさらいして行きましょう。

めちゃくちゃ長いです。最期にちゃんとレビューもします。お時間のある時にどうぞ。

 

 

 

 

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■開始30分で明示される「REMAKE」の意味

 

エアリスとクラウドが初めて出会うシーンです。この時点で既に、エアリスが「再会」のテーマに口にし、クラウドがそのヴィジョンを得ます。その後にも度々クラウドが見ることになる映像については、適当な言葉が見つからないので、ひとまず「前世」と言っておきます。「原作FF7」で、エアリスと死別するシーンを、断片的に見る。

この時点では未だ、それが「予感」なのか、それとも「既視感」なのか、プレイヤーに判別させる気はありません。ただ、誰しもがこう思った筈です「もしかして今回はエアリスを助けられるのか?」という風に。

 

■「フィーラー」の登場、その姿は…

 

七番街スラムに到着してすぐ「フィーラー」が登場します。物語終盤で「運命の番人」であることが判明する存在ですね。これは原作FF7にもあった特徴なのですが、FF7は、その前ナンバリングタイトルであるFF6と共通するテーマが多いです。「ファンタジースチームパンクが融合したような世界観」であったり「(準)人間がラスボス」であったり。「コイン+銃器」というルーファウス神羅の特徴的な戦闘スタイルは、エドガー的であると言えば確かにそんな感じです。さて、であればフィーラーのビジュアルを見て、往年ファンがまずピンとくるのは「ゆうれい」でしょう。FF6の魔列車に登場する、死んだ人の霊です。特にドット絵の方がフィーラーにそっくり。

 

「運命の番人」という要素を知らないプレイヤーがこの時点で分かることは以下の2つ。

1.原作FF7に、こんなのは居なかった…。

2.「ゆうれい」だとしたら、誰の幽霊なのか。(七番街スラムで大量の死者が出るのはまだ先の話ですからね)

勘の良いプレイヤーであればこの時点で、先のエアリスの件と合わせて「もしかしてこれ、2周目的な?」と考えるかも知れません。 「プレート崩落で大量に死んだ七番街スラムの人たちの幽霊が、2周目ではそれを起こさせないようにしている?」なんて。

元々FF7は、死んだ人間の魂が星を経て流転するという設定ですし、なんかあり気な感じがしますよね。でもこの時点では、まーだまだ答えは出てきません。(とはいえ、既に「俺の知ってるFF7じゃない!」という驚きが進行の原動力になるくらいには、序盤から攻めてきています。)

 

■プレイヤーに世界観を確信させる要素「二人目のクラウド

エアバスター」戦の後、教会へ落下したクラウドに対して現れるヴィジョンは、何とクラウドです。声色は随分と優しく、落下したクラウドのことを慮るようなことを言います。「あの時は、ヒザを擦りむいただけで済んだけど…」なんて台詞を受けて、この時点でプレイヤーは「これが2周目の世界」であることを確信します。ちなみに、この時すごい勢いで割り込んでくる幻覚セフィロスが、前後の違和感を有耶無耶にしていきます。上手。

 

■セフィロ…え、お前…誰!?

ウォール・マーケットに進む途中で、クラウドがまた幻覚を見ます。この人、しょっちゅうセフィロスの幻覚を見るんですが、これは原作でもよくあったことですね。「クラウドセフィロスのコピー候補」なので、自分の内側にセフィロスを宿していて、それが発露する時、幻覚として見えるワケです―――が!

FF7Rでは、その「原作設定」を利用して、かなりとんでもない心理誘導を仕掛けてきています。それはつまり「序盤のクラウドが見るセフィロスは全部幻覚」という「前提」そのもの。ほとんどのプレイヤーは「この人また幻覚見てる…」と思ったんじゃないでしょうか。「このシーン」を除いては。

「また守れなかったな」

「喪失がお前を強くする」

「それでいいのか?」

なんか割とはっきりめに現れたセフィロスが、上のようなことを言います。

セフィロスのキャラクターを知っているプレイヤーは「え!?」となるシーンです。「それでいいのか?」っていいに決まってるんですよね、セフィロス的には。自分に手向かって一太刀浴びせたクラウドに対して、異常でサディスティックな偏愛を注いでいるキャラクターなワケですから。

でも、この「それでいいのか?」は「それじゃダメだろ?」以外に受け取り方がないんですよ。いっつも「お前への贈り物を考えていた。絶望を贈ろうか。」みたいなこと言ってるドSソルジャーから出てくるような台詞じゃないんですね。

そしてこの「失って強くなる」は、原作でのエアリスとの死別のことを指しているように思います。(母親やザックス…って話もありますが、いずれにせよこの時点でクラウドが自覚できる話ではありません。)

つまり、ウォール・マーケット手前でコンタクトしてくるセフィロスは「クラウドの中のセフィロス」としても「実在のセフィロス」としても、ちょっとおかしい発言をしているワケです。そこで「二人目のクラウド」のことを思い出せば、当然「二人目のセフィロス」だって存在する、と帰結するワケですね。

「いやいや、俺の知ってるFFはこんな鋭いフックを仕掛けてくるゲームじゃないよ!?」と、めっちゃ興奮したことも記憶に新しい…。

ここで「2周目=REMAKE」という意味がさらに現実味を帯びると同時に、プレイヤーの願望である「エアリスの生存」の「さらに先」を暗示させてくるワケです。

 

アバランチのみんな、助かってくれ」難易度:C

「エアリス、生き延びてくれ」難易度:B

セフィロス、英雄だった頃に戻ってくれ」難易度:A

 

みたいな。

今さら過ぎて気づくのが遅れてしまったんですが、セフィロスって、別に最初からあんなサイコ野郎ではなかったんですよね。前編で「ビッグブリッヂの死闘」の話をしたじゃないですか。意外性のないアレンジばかりでイメージが固着化して…というやつ。あれが「各所のコラボで引っ張りダコ」のセフィロスにも起きていて、僕らの描く「セフィロス像」は、達観していて、薄笑い以外の表情を知らなくて、ブレイブ攻撃が長くて、マザコンで、クラウドが好き、みたいな要素で構成されてるじゃないですか。でもセフィロスには「それ以前」にまつわる描写もちゃんとあって、それはつまり「英雄セフィロス」としての人格で…。

「喪失がお前を強くする(のは事実だろう、だが)…それでいいのか?」

この台詞、めっちゃ後輩を気遣う英雄然としていませんか?

え? もしかして、そんな夢のようなIFまで、僕たちは期待してもいいんですか?

ここまでが最終章までの間に展開される「REMAKE」にまつわる主な伏線等です。

あとは神羅ビル内のVR映像の中で、クラウドセフィロスが背中合わせに立って、お互いを見ていない(二人の相関性を考えれば異常な構図、まるで共闘しているかのような…)シーン等もあり、これが「ただのリメイクではない」ことを意識していれば、勝手に想像が躍進してワクワクするような造りもありましたね。どうした…上手いぞFF…。

 

■明かされるフィーラーの役割、そして最終章へ

 

神羅ビルで、ついにフィーラーが「運命の番人」であることが明かされます。レッドXIIIがエアリスから受け取ったヴィジョンの中に含まれていた情報ですね。エアリスは当然、レッドXIIIよりも色濃くこのことを知っていたようです。だから14章の決意イベントでは、クラウドに思わせぶりなこと言ってたワケです。「好きにならないでね」は、当然「この後、死んでしまうから」という事実を知っていたからこその言葉でしょう。

さて、突然ですがバレットタイムです。みなさん、バレットについてどう思いますか? 僕はリメイクのバレット大好きなんですが、原作とイメージがちょっと変わった、という人も多いかも知れません。声優さんの快演が影響してる部分も大きいでしょう。ただ、彼の性格や言動が、原作と微妙な「ズレ」を見せていたことにはちゃんと理由が用意されています。

プレジデント神羅セフィロスに殺されるシーンで、バレットは原作FF7には無かった行動を取ります。そう、セフィロスに喧嘩売っちゃうんですね。それで返り討ちにされる、と。これをフィーラーが「蘇生」するシーンは、バレットのキャラクター性の「ズレ」が、はっきりと意図されたものであることを証明しています。やっぱりリメイクのバレットはちょっと、いやかなり激情家なんですよ。原作のバレットに比べて。だから「運命」とは異なる行動を取ってしまい、フィーラーがそれを修正した。バレットは最終決戦まで生き残っていることが「さだめ」だからですね。この演出で「運命=原作FF7で起きたこと」だとしっかり理解させているのが、非常に秀逸なポイントです。これ、伏線とか考察とかを抜きにして「なんでそんなことしてくれたの?」を考えるだけで「運命の番人」という存在の原則が分かるようになってるんですよ、凄くないですか? 僕の知ってるFFは(以下略)

 

■まだ見ぬ未来のために、全ての因果を破却する

 

ちなみに僕は途中まで「仮にアバランチやエアリスが助かるとして、その道程に納得できなければ、こっぴどく言ってやるからな…!!!」と激情をむき出しにしてこのゲームに臨んでいたと言っても過言…なのですが、正直、あの支柱での流れを見るに、フィーラーが「人を瞬時に移動させる能力」を有していることが事前に描写されていたとしても、ビッグスやジェシーが助かることには懐疑的でした。特にリメイクでは、はっきりと事切れる瞬間のようなものが描かれてましたからね。

また「死のさだめ」から一時的に逃れたウェッジに対しても、後にフィーラーが殺意たっぷりに襲い掛かってるところまで見ると、いよいよビッグスとジェシーは「死んだ」ということをはっきりさせている、とすら感じました。

…え、じゃあエアリスだけ助かる…かも、的な…? その、古代種的なアレで…?

というような、ちょっと嫌な予感を抱いたプレイヤーも多かった筈。しかし、リメイク版は僕らの知るFFではなかった…! ここから、とんでもない方法を使って全員を救う方法を提示してきます。

 

それは「因果の破却」つまり、原作FF7を無かったことにする。

「運命の番人」がいるなら、その「運命」そのものを破壊する、ということです。奇しくも、それを先導するのはセフィロスでした。

でもそれって…。

フィーラー戦で、レッドXIIIが抱いたヴィジョンが印象的ですよね。あれは「ADVENT CHILDREN」のラストシーンかも知れません。遠い未来、現時点で確定しているFF7の「後日譚」でさえ「未確定の未来」に。

それは「エアリスの死が回避できるかも知れない」というポジティブな変化だけではなく、代わりに起きるかも知れない悲劇、例えば星そのものを守ることに失敗したり、別の誰かが犠牲になってしまう可能性だって含んでいるワケです。

「前日譚(クライシスコア)」も「後日譚(アドベントチルドレン)」も、全ては原作FF7という大きな運命を軸に回った物語です。そんな原作FF7を否定してしまうことは、それに連なる全ての作品を「正史ではない」と断言する、あまりにも思い切った行いです。この時点でプレイヤーは気づきます。

あっ…!

最終章のバイク戦闘が終わったあたりから、主人公がクラウドから「ぼく」になっている…!

 

「ぼく」です。原作FF7をプレイした「あなた」。

どうにかしてエアリスを助ける方法はないか、と「すいちゅうこきゅう」のマテリアを探し求めた「きみ」。ジェシーと観覧車に乗ることを夢想した「おれ」。バグを使ってまでセフィロスを連れ歩きたかった「わたし」。

 

それを望むのなら、再構成(リメイク)しましょう。

ただし「自由の代償」として、これまでの「全て」を否定してください。

 

こういう論法で来るわけですよ。もはやメタファーがどうとか言って評論する次元を超えています。キャラクターコンテンツの偉大な先駆者であったFFシリーズの、その代表とも言えるFF7が、その内側に持つ膨大な歴史をすべて「薪」にして、未知へと進むためのエネルギーとして燃やすと言うんだから!

 

絶句してコントローラーを握りました。そして決断し、ラストバトルへ。正直、この決断を迷わせるだけの「説得力」が、もはやこの作品には存在していたんです。エアリスじゃなかったらティファが死ぬぞ、とか。エアリス以外全部死ぬぞ、とか。言い出しかねない「覚悟」を、むしろゲームの側から投げかけられて、受け取ることになろうとは思わなかった。この時点で、もはやFF7Rは既存のどのRPGとも比べられない巨作になってしまいました。だって、こんなことやったシナリオ、かつてないですよ。「これまでの体験」を燃やしてエンディングへと飛翔する、という点では「ニーア」シリーズの全データ消去等がありますけれども、あれはゲーム内で完結している話ですから。

FF7Rは、この23年を「燃やす」と言ってるんです。我々が体験してきた、FF7にまつわる記憶の全てを「外典(正しくないもの)に貶める」と言っているんです。そうじゃなきゃ運命の「REMAKE」なんてさせねえぞ、と。

こんなの、もはや「新約聖書」ですよ。

正直、ここまで説得力と、破壊力に満ちた結論を、まさかファイナルファンタジーシリーズが提示してくるとは思いませんでした。想像を裏切ること、予想の上を行くことが良きシナリオの条件であるのなら、間違いなくFF7Rのシナリオは最高です。ファンであればあるほどに、最後の決断が、加速度的に凄味を増していきます。

僕が口すっぱく「原作をやってからプレイするように」と言っているのは、この局面でいよいよ、まだストーリーに登場していないザックスなんかが出てきちゃってるからです。クライシスコアのラストシーンが突然始まっちゃうワケです。正直このラストまではFF7を知らないプレイヤーが「REMAKE」から入るのも「まあアリっちゃアリかな~」くらいに思っていましたが、吹っ飛ばされてしまいました。原作やってないと何も分からないし、何ならクライシスコアもちゃんとやってないと、よく分からないシーンじゃないですか、これ。

もう完全にクラウドから「FF7が大好きだったあなた」に主人公が移っています。ただしこの部分、あえてこういう評価もしておきます!! ここでポカンとしてしまう人はきっといるだろうし、それはちょっと可哀想!! はい、終わり!!

ここは素直に「僕らのためのゲーム」であることを喜びましょう。

 

そして、ラストバトルが始まり―――。

 

セフィロスは最期に「リメイク版のラスボス」の存在を示唆し「クラウドとの共闘」という神羅ビルVRでの伏線も回収しに来ましたね。今回はクラウドが感情的に断ってしまうワケですが、続編で十分に「エアリス生存」と「セフィロス共闘」果ては「ザックス生存」までも「アリ」にしてしまうような、ウルトラCな「答え合わせ」で物語は一旦の収束へ。(ただし、これが「ご都合主義」であるとは口が裂けても言えません。)

 

そして、未確定の未来へと続いていきます。

(ただし、こうなると「リメイク版クラウド」は正史では生まれない存在になりますね。そういう意味ではまさに特異点。主人公に相応しい存在ではありますが。この部分の解釈は、あえて分かれるように作られている思います。ザックスが生存したからこのクラウドは生まれない…のか、それとも、このクラウドが運命を選んでいくからこそ、ザックスは決して生還を許されない存在になった(から、あのすれ違う演出が挟まった)のか。まだまだ考えて楽しめる部分です。)

 

さて、急で申し訳ないんですが、ここからサウンドの話をさせてください。

 

■新約・片翼の天使

 

プレイする前の僕はこんなことを思っていました。

「ミッドガル脱出までの間って、セフィロスと戦ったりしないよな。ファンサービスみたいな感じで戦うことになって「片翼の天使」が流れちゃったらちょっと冷めるな~」

今にして思えば、何を腑抜けたことを言ってるんだお前は! と自分の顔をビンタしてやりたくなりますが、序盤の僕は本当にそんな風に思っていたんですね。(といっても本当に最序盤だけで、エアリスと出会うシーンの違和感を覚えたあたりで背筋を正しました)

 

さて、ラストバトルです。セフィロスです。FF7のラストバトルなのでセフィロスと戦います。記号的でしょうか? そうは思いませんでした。何故なら、ラストバトルが始まるのは「壁」を越えた先、つまり、全ての未来が未確定になってからの出来事。「FF7のラスボスってセフィロスなんですか? それってどこ情報です?」そんな状態なワケです。いくらでもデマが飛び交います。だってFF7の終わりは、まだ誰も見てないんだから。

 

それはそうとして「片翼の天使」はセフィロスを象徴する楽曲です。ボーカルを交えた表現は当時の僕らの度肝を抜き、そして植松伸夫御大の作家性をありありと世に知らしめることになった名曲です。それこそ「ビッグブリッヂ」並に色んなところで使われ、アレンジされている楽曲でもありますね。さて、今回の「片翼」はどんなアレンジなんだろう、とワクワクする僕は、曲が始まるや否や、脳天をハンマーでブッ叩かれたような衝撃を受けました。

はい、各自なんとかして音源を手元に用意してください。一緒に聞きましょう。

ざっくり言うと「全然違う曲」なんです。いや、そりゃオケの構成とか、メロディとかは共通する部分がありますよ。普通に聞いたら「片翼の天使(リメイク版)」として聞こえます。ただ、表現しようとしているものが全く違って「神秘的な荘厳さ」や「宇宙の神性という脅威」を表現しようとしていた原曲とは異なり、リメイク版の「片翼の天使」が表現しようとしているものは「正体不明の大いなる何か」に対して「分からないなりに覚悟と焦燥を以て相対している」という様子なんです。

つまり、原曲は「セフィロスのテーマ」で、逆にリメイク版は「クラウドたちのテーマ」であるように感じられるんです。

「焦燥」と表現しましたが、それは「原作FF7」という、リメイク版のクラウドたちからすれば「不透明なヴィジョン=まだ見ぬ運命」に対する漠然とした恐れであり、それと戦うことを要求してくるセフィロスの「真意の読めなさ」に対する恐怖なんですね。だから原曲よりもアップテンポで展開しながら、けれどコーラス部分はなかなか進展しない。そして「いつも聞いていたあの展開」が全然訪れないことが、さらに焦燥感を煽ります。「確定した未来=予想できる旋律」という安心感が、この曲にはないんです。つまり曲だけで、この最終局面を表現しきっているわけです。ヤバい。(語彙力消滅)

ただ、その展開が突如、スラーッと開かれるのがループ後です。曲の途中で、唐突に「片翼の天使」が始まるんです。メロディ、展開、オケ、テンポ、どれをとっても正統な「片翼の天使」です。そこからしっかり3分ほど、原曲の1ループ分がそのまま展開されます。これは間違いなく「セフィロスのテーマ」としての部分であり、逆に前半部分の異様さを際立たせます。そして「まったく恐ろしいことを考える」と驚嘆せざるを得ない部分がやってきます。

 

それが「片翼の天使」の「続き」です。

 

未来が未確定であるなら「片翼の天使」という楽曲が「どう終わるか」も確定していないワケです。「セフィロス!」で曲が終わった…と思ったところで「新約・片翼の天使」とも呼ぶべき楽曲が再び牙を剥きます。メニメニメニナス…といつもの文言を復唱し始めるんですね。曲は終わった筈なのに。それと同時に曲がどんどん加速していく。そして再び、かつてないほどのハイテンポで焦燥感を湛えて始まるAメロ、どんどん曲展開の常識を逸脱していきます。怖い、恐ろしい。何故ならば、分からないから。クラウドたちの気持ちとシンクロしますね。そもそも彼らは原作でこの曲が流れるタイミングとは異なり、セフィロスが何であるかさえ理解しないままこの戦いに臨んでいるワケですから。

ですが唐突に、それを切り裂くフレーズがやってきます。

「闘う者達」です。

これまでFF7Rで何度も流れてきて、もはや何よりも印象的になったフレーズが、ここにきて、たった一度だけ流れます。もはやクラウドのテーマと言っても過言ではないそのフレーズが、この異常な曲展開を切り裂くんです。そして曲は終わりに向かいます。

どうですかこれ。「手抜かり無さすぎワロタンゴ」でしょう。

僕はFF15の「APOCALYPSIS NOCTIS」の叙事詩的(エピック)な曲展開が大好きで、そろそろサウンドと演出のダブルパンチでFFにノされる日が来るかも知れない…身構えていたのですが、リメイク版の「片翼の天使」はまさに、その期待に応えてくれました。というかKOですね。タオル投げます。降参。

 

■新約・闘う者達

 

思えば、この「曲による表現」には前例がありまして。

FF7R版の「闘う者達」の中でも、特に原曲に忠実な正統アレンジがあるのですが、それを聞いてもらえば分かる通り、本当にめッッちゃ忠実なんです。違うところと言えば、それこそ電子音がオケになった、くらいの忠実ぶり。ただ、それほどに忠実な、いわば「お利口さん」なアレンジが、たった一か所「サビ」と呼ぶべき盛り上がりを、原曲にないメロディで表現している箇所があるんです。ループの手前、ちょうど0:54~の展開になります。ここ、原曲では裏に、こんな伸びやかなメロディラインは敷かれてないんですよね。ここ以外は完璧に、正統な、「お利口さん」アレンジなのにですよ。この僅かな変化が、未来の変化、最終的な因果の破却を示唆している…バタフライエフェクトゥ…といえば過言かも知れませんが「完全に同じものではない」ことを意識した部分ではあると思いました。そういった気づきが随所に見られるように、特にサウンドに関しては、恐ろしいほどにストーリー性との背離がない、手抜かりが無いんです。いやもう70兆点ですよ。

 

■新約・更に闘う者達

 

そして最後に「更に闘う者達」の話をします。エアバスター戦のアレンジですね。この曲が始まった時の「来た!」感は、凄まじいものがあったと思います。このアレンジは、原曲のイメージと寸分違わぬ始まり方をするんですよね。それでいて原曲よりも音の粒が均整に揃っていて、フレーズ間で行われるギターパートの新しい展開も良い。そして盛り上がりどころでは容赦なく盛り上げる。「オイ、生ッちょろい姿勢でやってんじゃないぞ。FF7だぞ。ボス戦なんだぞ。分かってんのかオイ!」という感じで、聞いてる方が気後れしてしまうくらいに「これが"格好良い"ってことなんだ!」を力強く提示してくるサウンドになっています。

そして他曲の例に盛れず…長い! エアバスター戦が何度となく、シネマティックな場面展開を見せることがその理由でしょう。しかしここで曲を平坦なアレンジで長引かせず、全く新しい「更に闘う者達」を聞かせてくれる、これがリメイク版ですよ、これがファイナルファンタジーの最新作、FF7Rのサウンドですよ! と高揚したのを覚えています。アレンジの特徴としては「聞きたいところを、とことん聞かせてくれる」印象。そして最早お家芸となった、後半部分に勇壮なコーラスを加えてエピック感マシマシで仕上げる手法。オケとコーラス主体で音圧たっぷりなパートと、一本のギターが軽快にリフを駆け抜けるパートの、対象的であり印象的なこと!

「原曲の完成度の高さ」に合わせて「今この瞬間に、ゲーム画面を通じてプレイヤーが聞きたい展開」を、しっかり精査して繰り出しているように感じられる旋律の数々…グリフィンドールにプラス900京点!!!!!!!

サウンドの話を転々としましたが、どうですかこれ。もはやサウンドに関する審美、評価でさえ、ネタバレの一端を担ってしまうという「ストーリーとの融和性」。

見事でしょう。

 

■総評

 

これほど挑戦的な展開に臨むリメイク作品は見たことがありません。そして、その志の高さに、グラフィック、サウンド、ゲーム性、ストーリーの全てが、見事に追従して完成しています。

序盤から「REMAKE」の意味をプレイヤーに手渡して、進行の原動力にする構造がとても独創的で優れていますし、それがなくても十分に、クリアまで導引するだけのゲーム的な面白さもあります。

ゲーム性の部分では、コアプレイヤーもライトプレイヤーも、等しくそれぞれの遊び方を見つけられるような、多様性のある設定、システムが魅力的です。全体のボリュームに関しても過不足ないものであると感じられました。

グラフィックやサウンドに関しては非の打ちどころがなく、"光彩"の都である「魔晄都市ミッドガル」の細部に至るまでを丁寧に描き、キャラクター造形美術に関しては、間違いなく世界でも有数の体験を得ることができます。そしてサウンドは「再構成」というテーマを完璧に表現し切っていますし、SEも耳に楽しいものが多く、アクションゲームとしての爽快さを補助しています。

一部にUXの悪さが残っている部分もあります。(例えば、エアバスター前の廃棄ミニゲームは、メリットとデメリットのイメージが難しい上に、説明文章も回りくどく、仕様自体が分かりづらい。また、バイク戦では「操作自由度」の低さが軽度のストレスに繋がる瞬間がある。等)

が、それがゲーム全体の評価を低迷させるようなことはありません。

全編を通して、ゲーム的にも、ストーリー的にも、説明し過ぎないことによって「自分で見つける楽しみ」が用意されているように感じられます。これは従来のシリーズと対比すると明確な「高度化」を感じられる部分であり、分作であることもネガティブな要素になっていません。ストーリーは途上でありながら、これを「完成」として捉えることも十分に可能で、今後があるなら、より期待できる、と思わせる完成度になっています。

挑戦的なストーリー展開であるが故に、一部のユーザーにとって満足できない部分がある点は否めませんし、最終盤で「クラウドたちの物語」から「原作プレイヤーが運命と決別する物語」にシフトする部分についても、急な感は否めず、賛否を生むことは間違いないと思います。ただし、これほど新しい試みであるならば、そこに賛否が生まれること自体が、作品としての成功であると僕は考えます。

 

以上の理由から、

FINAL FANTASY VII REMAKE」は、名作です。

 

前編の評価点に関してはほとんど大嘘で、実際は加点し過ぎて計算し切れないので、100点満点中、カンスト(9,999点)ということで、よろしくお願いします。

 

以上です。言いたいこと言ったので、サヨナラ。

なんか質問とか、指摘とか「ここはそうじゃねえだろ!」みたいな「熱いもの」があれば、コメントでもツイッターでもご自由にどうぞ。

 

いやー、面白かった。

「FINAL FANTASY VII REMAKE」が100点満点中9999点だった話【前編/ネタバレなし】

おはようございます。

第2回なんですがFF7です。

 

僕がこういうブログみたいな形式で長文を書く時って大体、以下に書くようなゲームに出会った時でして―――、

 

A.マイナーだけどめっちゃ意欲的なことをしようとしているゲーム!

  これが刺さる誰か知って欲しい!

 

もしくは―――、

 

B.次代10年を言祝(ことほ)ぐ、"新しい神話"が降誕しました

  みな、このゲームの神威を広く大地と民草に知らしめて、大いに礼賛するように

 

のどちらかなんですね。そして今回はBです。

 

みなさん、もう「FF7R」やりました? まだ終わってない?

結構ボリューミーでしたもんね。

 

分作、しかも「ミッドガル脱出」までと聞いていたので、10時間くらいで終わっちゃって、あとはクリア後コンテンツを遊ぶタイプのゲームかな? と思っていましたが、寄り道なども楽しんでいたら、ガッツリ30時間も遊ばせてもらえました。

クリア後もまだまだ遊べそうでとても楽しみです。

 

じゃあ総評から言います。

100点満点中、9999点です。

 

FF7Rが何故ヤバいのか、理由は探せばいくらでも出てくるんですけども。

まず、全編に共通して「非常に丁寧な"再構成"が徹底されている」ことが特徴です。

それは「大人気の原作があるんだから、それを裏切らないよう、丁寧にトレースし、作り込んでいけば良作になるだろう」ということではなく。

 

「今」「この時」「このゲーム史の中で」

FINAL FANTASY VIIの"REMAKE"をするなら、その体験の"究極"とは何だろう」

 

このテーマに対する丁寧さ、真摯さが、このゲームに通っている一本の背骨です。

では、以下に「手抜かり無さすぎワロタンゴ」なポイント(以降テヌワロポと呼称)を紹介していきます。ハイパー長いです。

 

※原作をやらずに「REMAKE」をやるのはまったくオススメできません。これから先は、原作をプレイしたテイで話を進めていきます。プレイ動画を見る等でも良いので、原作を履修してから読もう!

 

■第一の礼賛「神は己の似姿として人を―――、」

※注意 何故かFF13、FF14蒼天のネタバレがあります

キャラクターの話を少しします。

まず最初に言っておくべきことなんですが、僕はFFシリーズのストーリーに大きな期待をしていません。

原作FF7、それとFF10以降のタイトルについて「壮大ではあるが"固有の概念"が多く、その説明に割く時間の多さが、ヒューマンドラマ部分を薄めてしまっている」とか「世界の危機と、その救済を描くことに終始しているが、それが仲間キャラクターそれぞれのストーリーを束ねて密に収束していくような流れではないため、感情移入しづらいし、このキャラはこの話に要るんか…?がよく起きる」というような印象を持っています。もちろん、ゲーム都合で仕方のない部分は多くありますが、それを上手く消化した上で、素晴らしく"腑に落ちる"シナリオを描き出している他のゲームを多く見てきたことも事実です。

これはちょっとした好みの話になりますが、僕は、舞台を回す装置的な役割を持つキャラクターが多すぎるのも、それが使い捨てられるのも苦手です。FF13のシドとか、FF14のオルシュファンとか。「劇作上の都合」がキャラクターを早熟なうちに退場させてしまうのを、勿体ないと思います。登場するためにかけた時間(プレイヤーに体験させた時間)と、退場する際のカタルシスの大きさが見合っていないと、物語全体が不必要に膨らんで、脂ぎってしまう、ということですね。(なぜシドやオルシュファンからカタルシスを得られないのか、を語るには時間がかかりすぎる…。キャラクターの良き退場には「必然の理由」と「劇的さ」の両方が必要であり、彼らはその片方を満たせなかったのだ…。)

ですが今回、FF7Rにおいて、そういった「舞台装置」的なキャラクターはほとんど登場しません。もちろん、原作ではそういうポジションだったキャラクターもいましたが、そこへの手直しが非常に"丁寧"です。キャラクターの生き死にを「かつてないほど劇的なものにしてくれるわ!」という熱意が感じられたし、それが感じられた時点で、こちらに「その劇的な物語を改めて楽しんでやるぞ」という"真面目な気概"が生まれるのでオールオッケーなんです。これはリメイク作品ならではの仕掛けですね。

具体的には、アバランチの面々です。

よく知らない人たちが死の重みだけをおっ被せてくる原作(言い過ぎです、原作でも台詞回しに豊かな情緒がありました)とは異なり、彼らが何故生き、何故戦い、何故死んでいくのかが深く明瞭に(そしてやり過ぎない程度に)描き直されているので、原作での彼らの運命を知りつつも「彼らの退場を、より多感に受け入れよう」とか「もしも救いがあるならば…」という気持ちが出来上がるんですね。これがまず第一の、素晴らしく丁寧な再構成(リメイク)です。そしてこの「物語の映画的な再構成」の中に、前提部分で書いた「体験の究極」を演出するための見事な仕掛けが用意されています。(それについては後半で書きます)

というわけでFF7Rは、平成FFが慢性的に抱えていた、ゲーム都合を重視し過ぎたシナリオ、強く言ってしまえば「難解で陳腐な群像劇」…から遠ざかるための工夫が随所に凝らされていました。もちろん、このポジティブな傾向は「FINAL FANTASY XV」や「FINAL FANTASY XIV 漆黒のヴィランズ」の時点で既に頭角を見せていましたね。そっからこのリメイクですから、きっと僕は今後のFFには「話の面白さ」をグイグイと期待してしまうでしょう。かつて僕が持っていた「彼らの物語の続きを知りたい…という気持ちが原動力になって進むRPG体験」が、今回の丁寧な再構成によって復活したわけです。ありがとう再結合(リユニオン)…。

 

■第二の礼賛「嵐の過ぎた後、もたらされた静寂こそが福音であり―――」

サウンドの話をします。

つまり「闘う者達」(原作通常バトルBGM)の話です。今回のリメイク、とにかく「闘う者達」のアレンジやメインフレーズの転用が多くて、バトルはもちろん、カットシーン、ダンジョン等でも多用されます。つまり「FF7といったらこの曲よ!」というのを、作り手が意識しているということなんですね。もちろん「メインテーマの方が印象深い」という人もいるでしょうし「場面ごとに原作通りの音源を意識して欲しかった」という意見があるのも分かります―――、しかし「これが恰好良いんだよ! なぁ!?」というのを、作り手の側から熱く提示されることは、もの凄く気持ちが良い体験でした!

FF7のストーリー、特にミッドガル脱出までの話は「ゲーム的なチュートリアル」と「キャラクター登場」そして「権力打倒」の流れですから、とにかく印象的な「バトル」が多い。そういった部分を汲んで「闘う者達」をサウンドの軸に据えているのは、とても情緒豊かですし、しっかりと「わかる」ワケです。それでいて他の楽曲たちも要所では原曲の雰囲気たっぷりに登場し、ある個所では意欲的アレンジによって振るわれたりと、原作FF7の最大の魅力のひとつであった「サウンド」という素材を、過不足なく適切に調理できていると感じました。そして、これまで何度か匂わせている「大いなる仕掛け」についても、この「闘う者達」をはじめ、多くの楽曲たち、それ自体が内包しています。続きはネタバレになるので後半で。

そして「更に闘う者達」の話をしましょう。これは「闘う者達」もそうなのですが、今回、一曲が非常に長いです。「更に闘う者達」なんか10分近くあります。これはバトル中にムービーを挟んで、慌ただしく場面が転換する、シネマティックな演出のためですね。楽曲を小分けにし、フェーズごとにBGMも極力シームレスに移行して臨場感を高める…的なアレです。これが、とても素晴らしい。

FF7Rの「更に闘う者達」は、長尺の曲を綺麗に取り回して、バッチリと「起承転結」のあるバトル演出に仕上げる、匠の技になってます。こういうの超アガるぅ~~↑↑。

 

ところで、みなさん「ビッグブリッヂの死闘」って好きですか?(FF7Rで流れるワケではありませんが) 多分なんですけど、ほとんどの人が「ビッグブリッヂの死闘」を「好きだった時期」があったと思うんですね。

さて、僕はと言いますと「今でも大好き!!」と言えるあなたに比べたら、少しだけ「好き」が薄れてしまっているかも知れません。何故かと言うと「どんなコラボレーションでも特にテンションの変わらないアレンジを聞かされ続けた」からです。原曲の良さを言語化するのに時間がかかるようになってしまった。ノータイムで「ハァ!? 超カッコいいやろが!!」と熱く言えなくなってしまった。聞き飽きたからです。

それと同じことが、もしかしたらFF7Rをプレイしていない人たちの中で「闘う者達」や「更に闘う者達」に対して起きているかも知れません。

だとしたら君はFF7Rをやるべきだ。こんなにも「新しくて恰好良い楽曲」はない。FF7Rの楽曲は、植松信夫先生の偉大な作家性が持つ"余裕"であり、それをFF7Rのサウンドコンポーザー&プログラマーが、同じくらいに偉大な想像力と、一切の妥協ない努力によって舗装した「まったく新しい、あの名曲」だ。(曲が良すぎてベストアルバムのコメンテーターみたいになりました)

そんなワケで(どんなワケじゃ~~い!!)、僕の「闘う者達」に対する熱量は、今回の体験によって、まったく新鮮でエネルギッシュなものに新生しました。これを呼び起こしてもらっただけでも、100点満点中56億7千万点プラスされて弥勒菩薩が降りかねない恩寵!! 耳が法悦!!!!

 

サントラのリスト見れば分かるんですけども、とにかく曲数がハンパないです。「闘う者達」のアレンジだけで何パターンよって話ですから。あの曲も、この曲も数パターンあったり、えらい長尺だったりしますからね。そういう部分からも「本気度」がしっかり伝わってきて、もはや頭を下げるしかないです。僕たちはこの後、何年だってFF7Rのサントラで白米を喰えるわけですよ。ありがたいなぁ…。

 

今後は「俺、リメイクの「更に闘う者達」好きなんだよね!」じゃなくて

「俺はエアバスター…」

「俺はヘルハウス…」

「イイね…」

「ガードスコーピオン…」

的なやり取りが交わされていくようになります。

 

え? ちょっと待って、ボス戦ごとに全部アレンジが違って全部10分くらいあるって冷静に考えるとヤバくないですか???

(時に冷静さを欠くことが好ましい)

(サウンドに関しては後半でも言いたいことが大量にあります)

 

■第三の礼賛「神は不在のまま、メリーゴーランドで回る―――、回る―――、」

 

さて「ストーリーの再構成」と「サウンドの再構成」についてお話しました。

ここでちょっとゲーム性について言及するんですが、まだエンドコンテンツを全て遊び尽くしたわけではないので、暫定評に留まります。

まず、アクションRPGとしての出来は、非常に良いものです。従来FFのコマンド式バトルと、最新FFのアクション要素を上手く調和させたものになっています。「理論」と「反応」の、ちょうど真ん中を駆け抜けていくようなプレイ体験ですね。

そして、マテリア等の魅力的な成長&装備システムはそのまま「武器とアビリティを一組に」したFF9的な蒐集&育成の要素も魅力的です。ボスから貴重品を「ぬすむ」、「てきのわざ」を覚えるために「みやぶる」等の、とてもFF的なRPGエッセンスも、そこかしこに用意されています。

 

で、これと一緒に話したいことがひとつあって、それは「FF7ってどんなゲームだったの?」という話です。

 

原作FF7というゲームを一言で表現するなら「ゴールドソーサー」…。いや、ちょっと待って、帰らないで! 僕は「遊園地的である」ということを言おうとしています。

原作FF7って、なんか、言っちゃあれだけど面倒くさいくらいミニゲームが多かったんですよ。「龍が如く」かってくらい。特に有名なのが「ゴールドソーサー」で。当時のゲーム性の水準からいけば、それぞれのミニゲームが単体で作品化しててもおかしくないくらいのクオリティで、それが「ゴールドソーサー」にたくさん用意されていて、自由に遊ぶことができた、と。

で、ゴールドソーサーとは別に脇道のミニゲームも大量にありました。なんかよく分からないけどスクワット(ボタンを一定間隔で押すゲーム)させられたり、後はユフィとか、隠しキャラ探しなんかも今に思えばミニゲームの一環でしたね。

そういった「脇道の遊び」によって武器やマテリアが手に入り「良質なコマンドRPG」と融合したものが、原作FF7の「面白さの本質」である、と僕は考えています。(FFではお馴染みの「世界巡り」の面白さですね)

そういった意味で、FF7Rはまさにこのコンセプトを良く継承していて、とにかくあちこちに「報酬に繋がる遊び心」が用意されています。そして、ある種の面倒くささや、ネガティブな体験性から遠ざける工夫もバッチリあるんです。

例えば「あえて道を逸れるとアイテムが落ちている」「サブクエストをこなせばご褒美が手に入る」というような仕様と「システム部分の基本的な面白さ」が紐づくことによって「探求の意欲」が生まれるワケじゃないですか。そしてそれが上手くいった時、成功の体験=カタルシスになる。でもそれを「やらなければならない面倒なこと」と捉える層だって間違いなくいる。じゃあFF7Rがそれをどうしてるかって言うと「取り返しの尽かない要素」をほぼ全て撤廃して「頑張った人だけ、ちょっと早めに恩恵に与れる要素」にしてるんですね。これがすごく良い。

FF7Rの「武器」は固有のアビリティと紐づいてたり、武器自体にも育成要素があったり、カットシーンでもキャラクターのグラフィックに反映されたりと、かなり情報量が多い要素です。でもって「同じものを複数手に入れることはできない」とか「各キャラクターに合計8つの武器が用意されている」とかが先に明示されてるんですよね。つまり、武器をひとつ手に入れるごとに、ゲームは大きく進捗するわけです。だから武器を入手するとワクワクするんですよ。

で、ボスを調べてみたら「エアリスの武器が盗めるよ」なんて書いてあるわけです。古典的なRPG好きからするとアガります。そして盗めた時のカタルシスも凄まじい。じゃあ、そのことに気づけなかったら? 盗めなかったら? ここです。FF7Rの場合、そういった入手機会が限られるアイテムは、次の大きな町まで進めば、「普通に店で売られてる」んです。つまり、早めに発見して獲得するメリットは「その武器を早くから活用&育成することができる」という点のみなんですね。そして、このメリットを喜ぶのはコアプレイヤーだし、軽視するのはライトプレイヤーだろう、というところがこの仕様の良いところです。

徹底的に頑張った人には、その人向けの報酬がある。

そうでなくとも「取り逃した」という決定的にネガティブな体験を与えないような救済がある。

見事な「落としどころ」だと思います。こういう部分でもプレイヤーの体験をつぶさに想定していて、手抜かりがない。

というわけで、FF7Rが原作から継承した、豊富な「遊び心」と、その丁寧な「再構成」について話しました。ちなみにFF7Rのミニゲームの数々で、ゲーム自体が「面白い!」と断言できるようなものは無いのですが、導入はスムーズで、演出に優れていて、難易度もストレスになるようなものではなく、バランスが良いです。

リメイク版のゴールドソーサーも楽しみですね。

 

===

 

さて、これで前編は終わりです。

 

最初に、このゲームを指して「新しい神話」だなんて強い言葉を使いましたけども、それは決して大袈裟に盛ったワケではなくて。これだけの豊かな体験、先鋭的なゲーム性と仕様を多く盛り込んで「REMAKE」を謳うんですよ。つまり、今後どんなシリーズの、どんなリメイク作品も、どうしたってFF7Rと比べられてしまうよなぁ!?

 

そういう意味で言うなら、これまでの数多くの「リメイク作品」をまるごと過去にしてしまうだけの破壊力が、FF7Rにはあったワケです。少なくとも、ネタバレやゲーム深部の話を抜きにしたような部分でさえ…。

 

そう…。

これから語る後半こそ…。

「終わりの始まり」だ…。

クラウド…。

 

(「終焉の幕開け」的なことを「終わりの始まり」って言う人はよくいるけど「騒動の収束」を「終わりの終わり」って言う人はあまりいない:TIPS)

 

ひとまず総評は100点満点中9999点です。以下が暫定的な内訳になります。

◇ストーリーやキャラクターについて「平成FFに散見されたチープさ」から脱却しようという試みとその成功  +5,000点

◇「FF7のリメイク」という大きな期待に応えるだけのバリュー  +3,000点

◇フルプライスに納得できるだけのボリューム +2,000点

◇それはそうとしてUXの部分で褒められない箇所もあるが、全ては、取るに足らない傷だと感じる吉宗であった -1点

 

じゃあ、FF7Rクリアしたら、ぜひ後編も読んでくださいね。

【ゲームレビュー】「CONTROL」は誰に向けられたゲームか

おはようございます。第一回は「CONTROL」です。

◇「CONTROL」の概要

1.「Alan Wake」や「Quantum Break」等で知られるRemedy Entertainment が制作したTPS・アクション・アドベンチャーです。

 

2.TPS+超能力による爽快なアクションが楽しめます。難易度設定は不可能で、アクション難度は少し高め(油断するとすぐ死ぬ)です。

 

3.世界的な伝奇系創作群「SCP Foundation」の影響をとても強く受けています。

 

◇アクションシューターが大好きなユーザーはこのゲームを楽しめますか?

はい、楽しめます。

ヘルスを回復する手段が「敵を倒す」しかないので「守るより攻める」が基本的なルールになります。優れたエイムや、適切なカバーが生存率を高めるため「銃撃戦の楽しさ」がしっかり存在しています。

ゲームを進めていくうちに投げモノやシールド、ダッシュや空中浮遊などを習得していき、その度に戦い方が劇的に変わっていくため、新鮮な体験を続けていくうちにクリアすることができます。

リロードが時限式であったり「MP」に相当するようなリソースがあるため、少し独特なプレイ感があり、慣れるまでに少しかかるかも知れません。時間経過でヘルスが自動回復しないという点も、アクションシューターとしては独特かも知れませんね。

◇これは世界観の謎を解き明かすのが大好きなユーザーのためにあるゲームですか?

はい、その通りです。

ゲームのスタートからゴールまで、謎に包まれた世界観を紐解き続けていくことになります。膨大な量の固有名詞、各所に散らばる無数のレポート、動画、音声記録…。それらを繋ぎ合わせて「ひとつの物語」を、プレイヤー自身が理解するために進行するゲームです。

ただし、非常に複雑怪奇で、SF+オカルトな概念が多々登場するため、そういった方面への理解力、想像力をかなり要求されます。例えばあなたは「情報を汚染し、人間を腐敗させ、認識へ悪性の影響を及ぼす波形の生命体」と言われて、それがどういうものかを想像することができますか? このゲームはそれを丁寧に噛み砕いて説明してくれるわけではないので、プレイヤー自身がイメージするしかありません。

また、作中の文章は何もかもが概念的であるために、翻訳にはかなり苦労されたように思われます。一部、文字通りに読み取っても意味がわからない記述も存在します。

 

◇これはホラーゲームですか?

いいえ。主人公が肉体、精神ともにパワフル、かつ心霊描写やグロテスクな描写などもほとんどないため、ホラーゲームではありません。

いくつか驚かせるための演出も用意されていますが、そういうもの(サブリミナルや不気味なSE)が特に苦手なプレイヤーでもなければ、恐怖に値しないものばかりです。何より、作中に登場するあらゆる敵は、銃と超能力で木っ端微塵に粉砕できます。

 

◇謎解き要素はありますか?

はい。ちょっとした謎かけが随所に用意されています。

いずれも難易度は低く、ゲームのテンポを阻害するようなものではありません。

 

オープンワールド要素はありますか?

はい。かなり自由に寄り道を楽しむことができます。

各所に用意されたサブクエストや、それに伴う物語的な体験のボリュームも相当のものです。人間ドラマと怪奇ストーリーのウェイトは「半々」といったところです。

 

◇これはSCPが大好きなファンのためにあるゲームですか?

いいえ。今回、このゲームを語るにあたって最も重要な部分がこれです。

SCPの熱心なファンではない場合、次の「◇」まで読み飛ばしていただいてオーケーです。ネタバレを避けつつ、ざっくりとこの問題を解説します。

 

「CONTROL」のメインストーリーをSCPファンに対して分かりやすく説明すると「ある収容サイトで起きた大規模な収容違反を解決する」というものです。特異なオブジェクトの能力を吸収して超能力を得る、という点では「Lobotomy Corporation」に似たところもあるかも知れませんね。

ただ、SCPにせよ、Lobotomyにせよ、その面白さの軸にあるのは、そういった「特異なオブジェクトのストーリー」です。

「CONTROL」でそういった物品は「パワーオブジェクト」や「変貌アイテム」と呼ばれますが、これらのオブジェクトにまつわる収容手順レポート、事件レポート等がとにかく薄味です。単純に文章量が少なすぎるとも言えます。

「こういった能力を持っている」

「いつどこで回収された」

「利用することでこういった能力を会得できる」

それくらいしか記載されていません。「収容手順」なんてそれらしい要項もありますが、そのほとんどが「特殊な手順は不要」「狭いところにしまっとくこと」「(編集済み)」くらいのものです。

SCPオマージュの作品と聞いて「エージェントとして数多のSCPたちとめくるめく奇妙な体験!」を期待していたプレイヤーは、肩透かしを喰らってしまいます。

もちろん、映像的な表現は素晴らしいもので「奇妙さを眼と耳で体験する」ことについては一定の満足を得ることはできます。しかし、やはりSCPの面白さの本質は、各オブジェクトにまつわるストーリー、それが超常現象なのか、世界のバグなのか、あるいは財団世界における物語(tale)を象徴するものなのか、読みながら推察し、はっと気づいたところで快感を得る。ホラーなのか、コメディなのか、ストーリーなのか、アンノウンなのか、読み終わるまで分からない。そんな中で作り手の創意工夫を味わい、文章の妙に酔う。そういった「要素のカオスさ」にあると思っています。

しかし「CONTROL」にはそれがありません。強いて言うならば、このゲームは、メインストーリーで追いかけることになる「ある一つのオブジェクト」にまつわる「事件レポートそのもの」です。

それがつまらない、というよりは「もっとたくさん読みたかった」という気持ちが先行します。テンポを損なってはならない「ゲーム」ならではの造りだったのかも知れません。とはいえ、SCPファンとしては「テンポを損なったとしても拘って欲しかった」と感じました。せめて本家SCP記事と同じくらいのクオリティ、ボリュームの読み物が10篇ほどあれば…という感じです。

ただ、SCP作品の一要素である「機動部隊」や「エージェント」の恰好良さが好きなファンにとっては、けっこうイケてる作品だと感じられるかも知れません。本作のエージェントは、どんなオブジェクトも、どんな異常生命体も、銃と素手で張り倒していきますからね。

 

◇もしかして、バカゲーですか?

いや、まさかそんな。

1時間ちょっとの映画を見ている時「ひょっとしてこれ、あんま真剣に見なくてもいいやつか?」と思う瞬間ってありますよね。

そういった瞬間がね、時折、ほんの少しだけありますけれども。

決してバカゲーではありません。とても真面目なゲームです。

ただ、やはりどうしてもフィンランド産のゲームなので。

北欧メタルを流さないことは不可能だったのだろうと思います。

(ちなみに、演出としては大成功しています。)

 

◇映画「キャビン」が好きです。どうですか?

雰囲気は似ていますが、ちょっと物足りないかも知れません。

 

◇「アリス マッドネス」が好きです。どうですか?

思いのほか気に入ると思います。

 

◇「CONTROL」をまとめると

・アクション 6/10

出来ることは多いのですが、ゲーム性は単調です。サイコキネシスでバリアを剥がし、銃やサイコキネシスで攻撃する、の繰り返し。隠れて銃撃戦に臨むよりは、前に出て力で押し切り、ヘルスを回復して、また前に出る。そういった戦法でガンガン進んでいくプレイヤーが多かろうと思います。

ただ、要所要所で「気持ちの良い無双」を体験できる場所が用意されているため、通してのアクション体験としては「まぁ面白かった」という印象が残るのではないでしょうか。映像的には、かなり理想的な「サイキック・アクション」という感じです。

ただ、基本的にボスがおらず「新しい能力の習得」と「その実践」を繰り返していくデザインは、後半になるほど退屈でネガティブに感じられました。

 

・アドベンチャー 7/10

全て屋内とはいえ、各エリアは表情豊かにプレイヤーを楽しませてくれます。寄り道のボリュームも相当のものですが、アクション部分のゲーム性が肌に合わないプレイヤーにとっては面倒さを感じてしまうこともあるでしょう。

意外にも成長要素がしっかりしており、銃主体で戦うのか、超能力を軸にしていくのか、ビルドを考えることができます。筆者は銃も格闘もシールドも使わず、浮遊しながら岩を投げつけるだけで全て攻略しましたが、それを「ビルドの多様性」と受け取るか、それとも「アクション性の破綻」と受け取るかは、プレイヤー次第でしょう。

 

・世界観、ストーリー 9/10

SCPの威を借りている部分もありますが、それを差し引いても圧倒的な映像、演出によって「奇妙な世界」を表現しきっています。ストーリーは抽象的で難解、明確な答えを用意しないものですが「そういうのが好き!」というプレイヤーにとってはポジティブな点でしょう。ただ、本家SCP記事のような、圧倒的な読後カタルシスはありません。

◇「CONTROL」は誰に向けられたゲームか

TPS+超能力バトルをカジュアルに楽しみたいプレイヤーにとっては、素晴らしいシーンを出力してくれる作品です。

難解で深淵、そして残酷で奇妙な世界観をくまなく体験したいプレイヤーにとっても、多くのアーカイブ、レポート、音声や動画が、それを満喫させてくれるでしょう。

「遊べる映画」としてゲームをプレイしたいユーザーにとっても、記憶に残る体験になると思います。

ただし、熱心なSCPファンにとっては、間違いなく物足りない作品です。

 

以上です。ありがとうございました。